HOME

橋本努講義「経済思想」小レポート2003 no.1.

毎回講義の最後に提出を求めている小レポートの紹介です。

 

 

2003年度前期・経済学部「経済思想」小レポート(5月13日課題・5月16日提出分)

「『ドイツ・イデオロギー』に刺激されての我が社会観」

05010087 宮坂正太郎

文学部人文科学科人間システム専修過程

行動システム科学講座(社会心理学)・3年

 

 人間とその社会について考えるときに、個々の人間が「社会のしくみ」とでもいうべきものによって規定される側面と、その社会のしくみ自体が個々の人間の諸活動によって成立・規定されている側面を考えることが可能である。前者の側面では、モデルとして例えば、「社会のシステムの一部である身分制によって個人の役割が規定される」などというのがそうだろう。我々の行動は、社会の状況・システムに左右されるのであり、そのことは我々自身も経験的に、世の中をみて見の振り方を決める」といった意識上の行為で知っていることと言えるだろう。後者の側面では、「諸個人が特定の状況に特定のしぐさをすることが、日本文化を規定している」などというのがそうで、文化や経済システムや政治体制というのも個人の行動の集合体であると言えるのである。つまり、これらをあわせて考えると「人間は人間自身の諸活動で成立する社会の状況に左右される」「社会は人間によって形成されながら、諸個人の判断・行動を規定する」という事実があるわけだ。例えば、「流行のファッションは格好いいとされるから、その格好をする」などといった一見単純な話にも、優位なものを個人が選択することでそれをまた社会的に優位にしているという事実を見ることが出来る。

 「社会装置が欲求を規定する」もしくは「人間の意識が生産関係・生活形態を規定する」という言説は、上述したことをまさに示していると思われる。おそらく、これに自律という概念を持ち込むことは、これらのシステムを人間のコントロール下に置こうとする試みであろう。しかしである、実際のところ多層構造且つ複雑な人間社会のシステムを完全にありのまま捉えるという指針は現実には成り立たないと言える。実際、現存する社会システムの「しがらみ」とでも呼ぶべきものから、完全に自律しようと意識することは、その行為自体がまた社会を規定してしまう要素となり、それがめぐって「完全な自律」を阻むことになるので、完全に切り替えるということ自体不可能だといえると考える。つまり、『ドイツ・イデオロギー』においての理想的な社会像における完全に任意な生活は、現実、しかもしれは不断に変化する現実がある以上、達成することは出来ないのだ。

さて、なぜマルクス、エンゲルスはこういったものを提起したのであろうか。それを考えるに、やはり人間の「本能」とでも呼ぶべきものが背景にあるとの考えに至った。そもそも、人間が自律する、すなわち自らの運命をすべて自らの手中に収めることになることは、人間の生存可能性を高める極限である。これを達成すれば、我々にリスクというもの自体存在しなくなる。つまり、彼らの提起する試みは人間の生存可能性を高める極めて適応的な営みだったと結論付けることが出来よう。人間の思考機能は、これからどうするのか、なにが理想かなど将来のリスク・マネジメントにこそ、その目的があると言えるくらい、不確実の中でより自分に有利なものを求める上での計算機能を果たしていると言える。つまり、その一貫で彼らの言説は生じ、そこで論じているのはその具体的な思考の結果である。そして、科学の目的もここにあるといえるだろう。

最後に、『ドイツ・イデオロギー』に示されるところの「共産主義」というものが全く的を射てない代物だとは言えないと考える。確かに、完全達成された形態としての共産主義は存することができないと思われる。しかし、重要なのは「共産主義」は何からの状態・何らかの理想ではなく、「現状を止揚する現実の運動」とされていることだ。これらは、人間社会においてすでに現在するものを指摘した上でのものではないのだろうか。つまり、理想を作りながら行動すること自体は理想の達成にならなくとも、人間の適応にきわめて重要な問題であるという人間の本質を認識した上で、その理想への方向性を明示したのが『ドイツ・イデオロギー』の示すところなのだろう。

 

 

2003年度前期・経済学部「経済思想」小レポート(5月16日課題・5月20日提出分)

「市場経済での疎外を克服しようという人間行動」

 

 労働商品として、あたかも労働者の労働・仕事が貨幣での値付けにつながっていることが労働者の苦しみであるという指摘は、貨幣を「使う」人間として極めて重要である。労働者がまるで機械のようだという以上に、人間が自ら便利にするために生み出した貨幣で、その価値を定められ、それに人間自身が左右されているかのようだからである。つまり、人間は自身が生み出した道具に、“道具として使われている”ような状況にあると言えるのではないだろうか。実際、貨幣が意思を持って人間を操っているわけではないのではあるが、貨幣経済以降の人間は、貨幣という便宜的に使っているもので、人との関係を決める(場合によっては、「お金で殺人」ということも結構な頻度で起こる)ことがある。ここで、「決める」と述べたが、資本主義社会においてこの「決める」のは、個人の手にゆだねられているというよりも、形として存在が見えない「市場」によってだ。

 おそらく、労働者にとって、あるいは資本家にとってもそうかもしれないが、人間の行動という人間自身の存在を規定するような部分で、人間のコントロール下にないことが「疎外」という、一種の「むなしさ」「不満」に繋がっているのではないか。お金に人間味が無いというレベルではなく、我々自身が目に見えないところで何らかのメカニズムが働き、操り人形のようになっていると感じるというがここで問題となっていることなのだろう。

 これに対する方向性としての処方箋は2つ考えられる。一つは、人間のコントロール下に置こうという方向と、それを人間活動の中心に捉えないという方向だ。前者の試みは、一言で述べると市場経済である以上不可能であると考えられる。そして、市場経済にかわる選択可能性でも完全なコントロールは難しいと思われる(論争になったりするのは、難しいからであろう)。一方で、後者では物事の価値を市場での貨幣価値におかず、あくまで自分の価値付けで、他者との交換に際し貨幣を用いるという捉え方である。一見、人間の視点を変えることのようにとれるが、実際、現在もこれを人間社会・人間個人は自然に処理しているのではないだろうか。同じ、市場価値のものでも個体間で、あるいは個々の品の文脈的背景で値付けが異なったりすることがその証拠だと言えるだろう。同じ貨幣価値100万円の時計でも、人によって価値が違ったり、人間が所持しているものを手放さないようにしたり、もしくはなにをしてでも入手しようとしたりするなどである。

 こう考えると、疎外の状況は、単にそのままになっているという見方より、実際貨幣は人間の道具でしかないということがいえるのではないだろうか。市場が価格を決めているというのは、あくまで幻であり、市場などというものは便宜的な概念に過ぎず、本来存在しないものであるからだ。しかし、かといって人間は意識上において、好きなように操っているわけではない。これゆえ、完全には疎外を克服できないだろう。資本主義の中での、人間疎外問題に取り組むにはこれを踏まえたうえで、なるべく貨幣価値に重きをおかないような社会システムを模索する試みをし続けるしかないのだろう。

 

 

2003年度前期・経済学部「経済思想」小レポート(5月20日課題・5月30日提出分)

「マルクスの指摘に想う」

 

 人間とその社会を規定するものとしては、人間自身だけでなく、“他の生物”から“宇宙における地球の動きと他天体との位置関係”といったものまで、ありとあらゆる現実もまたそうである。例えば、生物的な視点では、進化論的に「人間は森から出て二足歩行で視界を得ることに適応した」という説があるが、これはさまざまな要素が組み合わさった自然が人間を規定したものである。それと同様に、人間が社会というものを形成し、集団で経済活動やその他の社会活動をするのも、それが人間という生物にとってより生存に適した形であったと考えることが出来る。そして、それは人間が設計したのではなく、先史以来の歴史の中で、人間が常に「向上」を求めてきた結果、ある意味、自然に形成されてきたものである。そして、それを極めたものとして人間は、環境そのものを自ら設計し作り上げようということを思索する段階まで到達していると言えるだろう。

 マルクスは、「共産主義」を何からの状態・何らかの理想ではなく、「現状を止揚する現実の運動」と定義した。これは、まさに上述したよう営みの「究極の形」として人間が自ら現状たる環境を「よりよいもの」へとするために、「自ら科学的に設計する」ということを意図した言説だと言えると考える。社会システムに関しても「神の見えざる手」という言葉が象徴するように人間の及びもしない部分の存在が現状として存在するが、その部分を人間のコントロールの範疇に収めんとする運動が想定できる。しかし、それを完全に達成しようとするならば、ありとあらゆる社会に働きかけるもの(それは個々の人間の行動から自然要因まで無限大に想定しうる)を解明し、設計するに至らなくてはならない。そして、それと同時に人間の把握するところの現在のありとあらゆるシステムに関し、その枠を絶対視せず、むしろ不完全なものとして否定しながら、更なる解明と向上への働きかけを続けていくことが必要になると言えるだろう。

ところが、ドイツ労働者党綱領においては、方向性が現状の打破と向上にあるにも関わらず、全ての富や文化の源泉、効用をもたらすものを、世界の動きの一部たる「人間の行動」である「労働」だけに求めていたり、一つの形態として規定できない国家制度を規定していたりと、「現状を止揚する現実の運動」を限られた範囲でしか捉えず、「究極の目的」を達成しうる可能性をゼロにしてしまっている。マルクスの指摘する問題点はここにあろう。勿論、マルクスの理想たる全てを人間の設計かにおく自律は完全に達成されることはないだろう。しかし、全てにおいてそれに向けた運動をすることこそ意義をもつ、彼はそう考えたと考えうる。その点で、ドイツ労働者党綱領は、まさに一番重要な部分を放棄した形に陥っている。それを、マルクスは指摘したと言えるだろう。

「われは語り、かくて我が魂を救えり」という最後の一文はまさに示唆的である。彼は「一番重要な部分」を見落とした綱領に対し、確かにそれを指摘はした。しかし、何からの状態・何らかの理想ではなく運動である以上、ここはこうだとのいうような「正しい形態」たるものを示しての批判はし得ない。マルクスはここで責任を放棄したというより、問題の性質上、責任は負えないのである。この一文はその意味で、まさに、マルクスの思想があらゆるものに及び限界点のないものへの働きかけそのもの(これを運動としたのであろう)であることを如実に示していると考えられる。

 

 

2003年度前期・経済学部「経済思想」小レポート(5月30日課題・6月3日提出分)

「合理」

 

 我々は、合理と非合理という二項対立を、深く考えるか否かは別として、しばしば用いることがある。そしてその場合、勿論例外もあるが、大抵、合理的であることが説得力を持つ。それでは、我々が使う文脈においての、この「合理」というものは一体何なのであろうか。普段使っている文脈を考えるに、それは本能的でないという意味でのrational的なものか、道理にかなったreasonable的なものか、もしくはその両方かという意味合いでどうも「合理的」という表現を用いているようである。そして、そのどれもがよりよい水準になるという暗黙の了解があるように考えられる。

そもそも、この「合理的」というものと「非合理的」というものの違いは何かを考えると、それは人間が自己完結的に説明できるか否かという問題だと言えるだろう。どちらも、説明していないわけではない。例えば、「非合理」とされる宗教は、神や信仰の対象に説明できない規則を掲げておくことで、他の人間社会の事象など人間主体が捉えているもののあり方が何かの意味付けを図っている。しかし、これはあくまで神秘的な部分が残っているのであり、現在一般に言う意味での説明がなされていない。宗教自体によって、宗教を否定することを否定していた文脈においてはうまく機能するが、ひとたびそれが崩壊すると、人間の自然な欲求としての理解・説明が全くなされていないことになる。それがウェーバーの言うとおり、まさに近代以降における状況であり、現代においては、全てにおいて自律的な説明を行わない限り説明をするのは不可能になっていると考えられる。そしてそのような状況だからこそ、人間の心の働きまで人間が認識するものは、どんなものでもいわゆる「科学」の対象になる。

 ところが、完全合理を目指そうとしても、それには限界がある。なぜなら、「人間の知」には限界があるからだ。人間は、自然・社会のさまざまなものに規則性を発見し、合理性を発見的道具として、様々なものに「意味」を与えることに成功した。おかげで、科学の発展と経済成長と呼ばれるものの恩恵を受けている。そして、その営みは更に発展を目指そうとしている。しかし、ここには大きな前提として、この世界が「合理的」で将来何らかの形で自己完結的な説明がつくはずだということを掲げなければならない。しかし、人間にはそれが真か偽かということは今のところわからないのである。つまり、この世は合理的なのだろうけれど、人間がその合理性を完全理解できないといことになっているのだ。

 では、これを踏まえて考えてみる。ウェーバーの示唆するとおり経済発展が、禁欲的、知性主義的なものからきているというのは事実だろう。そして、近代資本主義の合理的経営に伴う人間にとっての苦難に対応して合理的にすること自体が使命を与えているのも事実だろう。しかし、結局のところ、この苦難から逃れることなど不可能だといっても良いだろう。これから逃れるためには、その「合理的」な理由の説明が不可欠だが、それを説明するためには、苦悩は合理化のために必要だという「事実」を考えるしかないということになってしまう。では、なぜウェーバーはこのようなことを指摘したのか。それは、うまくコントロールしたものが優位に立つという普遍的な事実を主張したのではないだろうか。人間の特徴を考察し、人間の本来的に備わるより適応するとの本能の結果、合理性を生んだが、それはまだ不完全である。そのことを述べたといえるのではないだろうか。

 

(不完全な形で合理的な説明にならなくなってしまいましたので、更なる検討と模索を致します)

 

 

2003年度前期・経済学部「経済思想」小レポート(4月11日課題・4月15日提出分)

「定義!学問とは何か」

 

 「『学問』とは、ただ人間のみが自らのより良い生存・適応のために文化の維持・発展をすべく持つようになった知的側面での手段である」。私は、学問を捉える主体としてこのような一つの定義を試みる。

 前回、4月11日の講義の題目は「学問とは何か」であった。何かと問われた講義を受けた以上それに対する答えを自ら答えてこそであると考え、私の定義を冒頭で述べさせていただいた。述べるだけでは「主知化」したことにならないと考え、これに至った「理屈」の概要を自分でも全くもって完全だとは思っていないものだが以下に示す。

 まず、何かと問いに対する答えを導く作業は、定義である。つまりここでは、「学問」という概念の内容を正確に限定することである。概念とは、主体がどのようなものか一般化して捉えているものだ。人間が、学問をどのようなものと位置付けているかを考える。

人間の学問の位置付けは、多様である。配布されたプリントの【あなたにとって学問とは何か:七つのタイプ】に良く示されているように、学問を捉える主体となる個人によって、全く多種多様な学問の意味合いを持っている。ここで、これを一般化する上で、注目するのは、すべてに共通して、「学問」を「何か」のための「道具」のごとく位置付けている点である。ここに述べた7つ以外にも位置付けはあろうが、すべてにおいてこれは当てはまるであろう。

次にその目的とでも言うべき「何か」をもう少し一般化できないだろうか。ここで、私は「充足・満足を得ようとする上での学問」ということを考える。確かに、『7つのタイプ』の中だけでも、「学問への比重の置き方」「学問をして実際に得られるもの」は異なってくる。だが、これらは「人間的発展」にしろ「生活のスパイス」にしろ、はたまた更に対象を広げて「社会の向上への手段」とするにしろ、結果的に学問から得られるもの若しくは学問をする行為そのものから、その主体が満足を得ることへと繋がっている点で共通していると言える。

さて、ここで考えたいのは「人が満足するとは何であるのか」だ。私は経験的に、満足は欲望を叶えたときに得られるものだと考える。欲望は、「食欲…生命活動のエネルギー源を主体に摂取させるもの」「性欲…子孫を残させようと主体に働きかけるもの」などで考えられるように、人間がその個体や種をより生存・繁栄させようとする動機であると言えよう。学問をするのが満足を得るためであるなら、学問を求める欲求はその主体や仲間をより繁栄させようとするためのものであると考えられる。

では、学問は実際、人間社会において人間という種、あるいは民族などの集団や個人の繁栄にどう結びついているといえるかを考える。人間社会での学問の働きを考えると、学問をする上で行われている「個人・集団間での知識の伝達」と「新しい知見・知識の発見・創造」は、我々の文明の維持・発展の根本となっていると言える。これがなければ、文化や科学的財産(技術・理論・思想など)は伝わらないし、そもそも生まれないからだ。ここで注目するのは、「文化」は人間のみが持つ繁栄への手段だということだ。たとえば、土木技術ゆえに人間は自然を利用し「生息地」を拡大したなど。これは、前段と照らし合わせ「学問への欲望」が人類の繁栄に繋がっていると結論付けられる。

 以上より、私は冒頭の定義をした。  (以上本文1378

 

最後に、ウェーバーが『職業としての学問』において述べるところに触れたい。私が考えるに「体験は学問では個性的でない」「『知的廉直』という作法」などは、すなわち「主知化」「合理化」といえども、それはあくまで学問をする個々の主体にとってのそれであって、「絶対」ではない。だからこそ、出来る限り事実に誠実、特に主体はあくまで主体にとっての主体でしかないという事実に誠実でなければならないということではないのだろうか。また、「学問が生活に及ぼす寄与」というところで学問の人間生活・社会にとっての価値が述べられているが、これは学問が人間生存・繁栄の手段(私が上記で述べたことだが、これはこのあたりから思考した結果でもある)であるなら、その時代の価値体系が崩壊しても学問の存在意義は普遍であるとのことではないだろうか。つまり、私はこのレジュメからウェーバーは学生を挑発するという形をとりながら、学問の普遍的部分を伝えたかったのではないかとの感想を持った。

上記の定義もあくまで「私にとっての事実」であることを肝に銘じ、かつ改めて学問の存在意義を考えたという点でウェーバーと本講義にうまいこと少しは学ばされたと思う。

(以上1378499字)

 

 

2003年度前期・経済学部「経済思想」小レポート(4月18日課題・4月21日提出分)

「『無知な人間』の社会を『知る』ことを考える」

 

 知識が不完全であるがために、経済活動がおき、市場経済が機能するとの言説は、正しい説明だと考える。人間の経済活動の本質は社会の中での個人の社会的活動であり、その人間が社会的な行動をする上で、知識の不完全性が大きく働いているというのは現実のことだと言えよう。

 経済の動きというのは、そもそも個々の人間が自ら考え、あるいは本能と呼ばれるものに従って行動していることが複雑に絡み合ったものだと考えられるのではないだろうか。今までの経済学の問題点は、おそらくこの個々の人間の行為に注目するというよりも、「個々の人間はこう活動するものだ」的な前提を「理論的」に無理に作り出してしまったことにあると考える。理論的に説明しようとする科学的な行動が、逆に理論の中の世界を作り出してしまい、現実の経済活動と離れた部分で経済を理解してしまったということだろう。経済活動を維持しているのが、経済法則ではなく個々の人間が為した活動(思考・意思決定なども)の集合だということを認識してこそ経済活動を合理的に説明したことになるのではないだろうか。こういった問題は、決して経済学だけにあっものではないとも思う。他の社会科学、例えば社会学や心理学と呼ばれるような分野もそうだろう。一見、社会法則を理論的に説明しようとするがために、本来個人の行動の集合として起きた社会的事象を、まるで「集団や社会構造が持つ意思」が存在しその結果であるようなことを述べたりしてきた。

 では、既存の経済学は一体何だったのかということになる。私は、全くの「理論的妄想」だとは考えない。他の人文・社会科学が総合的な説明が出来ていない段階、例えば心理学であるなら「心理の働き」を、「こころの機能」で説明していたような客観的法則による説明を持たない段階に経済学は、結果的に的外れな部分をもち現実離れしたものだとは言えるものかもしれないが、一定の説明を成してきた。また一番素晴らしいと思うのは、知識が不十分で「無知」であるがために、最もわかりにくいであろう人間の行動の集合である社会を科学的・理論的に「知り」、その研究の中でそもそもの「無知の克服」を試みていたともいえるのではないだろうか。私は、この意義は大きいと考えるし、これらが、これら自身の抱える問題を指摘する研究を生み出す根底になったとさえ思う。

 人間を「無知」だと述べたり、「確実性が無い」と述べたりすることは、一見不合理に見えるが、これこそ現実に即した合理への道である。結局、科学(特に社会科学)はそのプレーヤーである個々の人間の動きを研究するところに行き着くだろう。これには、人間の意識上の思考・合理性というものでは不完全で、それこそ経験によって得られる「暗黙知」や、何か「本能的」なものまで考える必要も出てくるだろう。そのためにも、「無知」を「自覚」し、人間の行動やその所産に対して基礎的な問いをしていくことが重要だと考える。それによって、人間は人間自身への理解を深められるのであろうし、飛躍するがそれが科学の目的であるとも思われる。 (1268字)

 

 

 

 

経済学科4年 17990111  興村 愛

・「本来の人間」の意味について

 マルクス論の今講義の部分についてはうなずける部分が多くあったように思う。「本来の人間」という言葉について熱い議論が交わされたので、これについて私の意見を述べておきたいと思う。私の意見はマルクスよりで、彼が内的世界の充足した人間の形を本来の人間とするのには、心の中で賛成していた。私の価値観とマルクスの価値観が一致していたという理由ではおそらくなく、人間の最も原始的な形態がどうであるか、と考えたときにマルクスの論は充分納得のいくものである、と思った。人間の最も原始的な姿、というのは人工的なものに囲まれていない状態での人間である。私達は今、この社会で人間の創造物に囲まれて生きている。それがすべてなかったら、いったい何を求めるだろうか、と考えたら、「本来の人間」の形が見えてくるような気がする。そうしたら、すべての人が求めるものは同じなのでは、と私は思う。ただ、われわれは今、ものに囲まれすぎて暮らしているので、そうした疑問を投げかけること自体が難しくなっているとは思う。

・「断念」と「充足」の選択について 

 私は、あらゆる人間が断念と充足の両方を経験するものだと思う。ただ、長いこと働き続けてきた人が、定年退職後に内的世界が充足していないことに気づく、という話は、その前日に同じことを扱ったNHK番組を見ただけに気になった。うちの父も定年までまだ10年もあるのに、今から年数を数えていたり、その後あれをして、これをして、としょっちゅう考えていたりするのを見ると、これはかなり深刻な問題であるらしいことがわかる。  

私は、本当に充実した人生というものは、充足と断念を繰り返すことによって生まれると思う。断念の繰り返し(継続という言葉を使ったほうが良いだろうか)によっては、よっぽど学ぶことが好きな人間でない限り、満足というものを得られることはないと思う。反対に、充足を求め続けること=内的世界の充実を追い続けること、で成功する人間はほんの一握りの芸術家くらいだと思う。私は、学ぶことをやめた人間は、人間のもっとも不幸でおろかな形態だと思う。学ぶ、とは勉強を続ける、という意味ではなく、興味を持ち続けること、知りたいと願って何かの行動を起こし続けること、だと思う。さて、私は先ほど充実した人生というものが断念と充足の繰り返しから生まれる、と述べたが、ただ両方を経験することは誰もがやっていることだと思う。そうではなく人生が充実するか、しないかというのはそのサイクルの問題だと思う。長いこと勤勉に生きてきた人は、もうそれをしなくていい、となったときにあまりにも長いこと断念を続けてきただけに、自分の内部に別のもの=充足を探すことに戸惑うと思う。逆に怠惰を続けてきた人間は勤勉というものにより生み出されるものの意義をつかむのに時間がかかるかもしれない。そうではなく、より短いサイクルで充足と断念を繰り返すことによって、人としてより充実したものになりうるのではないかと思う。あるときは断念を、あるときは充足を求め、充足を励みにまた断念を、ということを繰り返し、より充実した一生を送れると思う。そしてそれが人間の一番自然な形なのではないだろうかと思う。

     テクノクラートについて

なんだかんだいって現代の社会は専門化支配の下に成り立っていることは否めないと思う。構造が複雑化している現代の社会でわれわれは専門家の意見に頼らざるを得ないから、これは仕方が無いだろう。しかもわれわれは確かに専門家から生活のさまざまな面で利を受けているのだから。これは公論の支配であるともいえるがそれは批判の対象となるべきことなのだろうか。私はそうは思わない。人々がそれらしく聞こえる専門家の意見を鵜呑みにしてしまうケースは多少危険といえるかもしれないが、専門家の意見に疑問や不平を感じた時に自らの意見を述べられる言論の自由のある社会ならば、テクノクラートは大いに結構なことだと思う。しかしながら、確かに今の状態では自分の意見を他人に聞いてもらう場なんかは不足している気がする。相当の心意気があれば他人に自分の意見を主張できる場を確保することは出来るだろうけども、たいていの人は何か言いたいことがあっても、それを行なうには相当な労力がいるので、黙っているほうが楽、とあきらめてしまう。そういう受身の構え方が、専門家に依存する社会を作り上げてしまっていると思うし、さらに、依存しているにもかかわらず、絶えず、専門家を批判しようとするのは、人々が潜在的には各々の意見を持っているからだろうと思う。専門家に頼りつつもわれわれそれぞれが自由な意見を述べられるような社会にするには、もちろん、講義で出たような、公的(テレビ番組とか)に意見を交換する場を作ることも一つの案だとは思うが、やはり、この点では、私はハバーマスの主張に賛成する。すなわち、「意見を公論へ」である。一人一人が自分の意見やコミュニケーション能力をバージョンアップさせることである。一人一人が他人と意見交換をする手段を持つことによって、専門家に頼る社会構造の不平等さは次第に緩和されると思う。すなわち言語の豊かさや表現能力の豊かさが誰もに認められる「公論」と言うものを生み出すのだ。

・消費について

今回は消費活動における差異への追及について述べたいと思う。人の消費選択は、いくら自分が自由に選択していると思っていてもある程度はフレームワークに規定されており、メディアや企業といった他者に規定されているものだ。ここまでは講義の内容が全くそのとおりだと思う。このフレームワークから抜け出そうと、人は差異を求めるものだが、その差異を求めると言う行為もまた結局の所、規定から抜け出すことが出来ないというトラウマに陥っていると思う。人が差異を求める理由を考えてみると、例えば人より目立ちたい、周りの人にうらやましがられたい、と言った感情からであろう。そう考えると、差異を求めるためとはいえ、誰も欲しがらないものや、人前にさらすのをためらうようなものは欲しがらないだろう。よって、消費しようと思うものは、文化なり、習慣なりに規定された枠組み内から選択するほかはない。このように、結局はフレームワークから抜け出せずにいる人は多い。このフレームを超えて、差異を得られたとすれば、それは変人あるいは世捨て人と呼ばれる類の者になってしまうだろう。

 ではなぜ、差異を好むわれわれなのに、この枠組みから抜け出せないのか。それは共同社会に生きるものの性であると思う。共同社会において、周りと全く違うことをやるのは危険である。いくら自由にしているとはいえ、突拍子も無いことをやるのは危険である。個性を主張しすぎるのは、この社会の中で孤立してしまうかもしれない、と言うリスクを伴う。そもそも差異と言うものは他人との関係の中で初めて求められるものあるいは規定されるものであって、最初から人間が他者とのかかわりを一切持たずそれぞれ独立しているなら差異というものをわざわざ認識することも無いだろう。だから私は講義でいった、消費が加速することによって、孤立化が進むと言う話には反対である。共同社会の中にいるからこそ人は差異を求めるのだ。